一般文書・批判記事 目次へ戻る

「長いマタニティーブルー」  平成18年6月10日   日本発 匿名手記

  私は日本のシュタイナー教育に関わった元父母です。一連の出来事を通して、私は組織の本性を見ることになり、 ここは私たち家族の居場所ではないとわかりました。その後、育児に自信を持てなかった自分を見つめなおし、私は子育てをやり直しました。すっかり目覚めて、子どもとの時間を大いに楽しみ、親子共に癒されました。そんなときPLANSを知り、日本でシュタイナー教育に出会った人たちのために参考になればと思い、私の手記を書くことにしました。

素晴らしい教育に出会って

 この幼稚園に入園が決まったとき、私は本で出会った素晴らしい教育をわが子に体験させることができるという喜びにあふれていました 。シュタイナー教育が説く育児の知恵には、はっとさせられることがたくさんありました。特に目に見えないものの価値を認めて尊ぶ精神は、日本に古くからある道徳精神と同じものに思えました。現代にもっとも忘れられていることを大切にしている。これが本当の教育だと思いました。忙しい毎日のなかで見過ごしがちな優しさと心のゆとり、愛情をもって待つ姿勢を丁寧に説く内容には誰もが納得します。それ以上ゆき過ぎなければ、本当に素晴らしい教育なのです。
 ところが、あるところから 一般常識を超えたようにみえてきて、だんだんついていけなくなりました 最後には始めに覚えた感動とは正反対の信じられない現実にショックを受けて終りました。何がどうなっているのか、自分の判断がどこで誤ったのかを振り返えるのには時間を要しました。  

  入園したときに運営の仕方が普通と違うと言われましたが、教育配慮を第一にする運営であると説明されたので、むしろ歓迎していました。先生との関係やコミュニケーションの方法 などすべてが変わったやり方でしたが、元々外国文化の輸入であれば色々あるだろうが、先生がこれだけエネルギーを注いでくれている真摯な姿をみれば、 この姿が曲がった結果につながることはないだろう、大切なのはここにいる人たちである、彼女たちの初心を信じようと思いました。 こちらも誠実に応えていけば相互に実りがあるはずだと考え、さまざまな新しいやり方に慣れていく努力をしました。

不思議な体験

− 総会(議決機関)は「ひとりひとりの心の鏡に全員が、全員の心の鏡にひとりが浮かぶ
  
よう・・・」というシュタイナーの言葉が唱えられて 始まります。

− 入園してすぐ、持ち物に子どもの目印になる絵柄を刺繍するように言われます。出来上
   がると、先生に輝く光が輝いて見えないと言われ、 何度もやり直すように言われた人が
   いました。

− プラスチックのおもちゃは不可です。持っていると注意されました。 お互い持っている
   ことを隠したり、捨ててしまいました。服装にも色々細かく注意がありました。

ー 日々の連絡は原則として建物入り口の横にある「掲示板」が使われます。書類やプリン
  
トは「目と目のコミュニケーションが大切」だからという理由で使いません。 実際には
   下の子を連れて通園している人にはメモを取ることも大変ですが、申し出ても口頭での伝
  達を守るよう言われました。

− 先生に心配事を相談していた母親がいました。相談には何も答えてくれなかったそうで
  すが、お迎えのとき突然、その日の子供の様子を厳しい口調で咎められたそうです。驚い
  て何も言えず涙をだす母親をみると、先生は急に彼女を抱きしめ「一緒にがんばりましょ
  う」と言いました。

− 幼稚園のバザーでは手芸品がよく売れるので、母親はたくさん作るよう勧められます。
  よく何度も作り直しするよう云われました。たしかに販売できないような作品もありまし
  たが、なかには理由が分からないものもありました。作り直す理由を知りたがる人もいま
  した。

− ある人は先生から「子どもの様子が荒れている」と言われました。肉を食べているから
  だ。テレビを見せているからだなどの噂が流れました。卵を食べさせると性的成熟が早
  くなると先生に言われた人がいました。
小学校へ行ってからも、給食を食べずにお弁当を
  持たせる人、牛乳だけは飲ませない人、などがいました。

− 新しい先生が着任するとしばらくして、その先生が「いかにふさわしくないか」という
  話し合いが持たれ、先生、運営委員、父母全員のなかで、欠点、失態を細かく挙げられ、
  さまざまな人の視点から批評、評価され、すべてを認めさせられたうえ辞めました。

− 卒園名簿を作るため、卒園父母に連絡を取り、住所、電話番号記載の了解を得ようとす
  ると、大勢の人に拒否され卒園名簿は作成することができませんでした。

教義がすべて

 私の子どもが通った幼稚園は、シュタイナーの教義に強く洗脳された先生が独裁しており、幼稚園のあらゆる決定を密かに行っていました。独裁者によくしてもらう人もいました。楽しい思い出をつくり、卒園後も協力的な家族もありました。が、なかには精神的に深く傷ついて去る人もいました。非常識な体験をした人は口をそろえて「この先生がおかしい。シュタイナー教育は良いはずだ。」と言います。しかしよく調べてみると、こういう先生は「忠実なシュタイナー教育の信奉者」であることがわかります。
 
理想と現実の矛盾を受け入れられず、自分が未熟だから理解できないのであろうと反省し続ける人もいます。そういう態度が批判を生みにくくしています。おかしいのは先生ではなく教義だと思います。そのことにはやく目覚めて、(教義にではなく)お子さんと向き合い、人間の成長の土台となる親子の絆をしっかりつくってほしいと思います。
 
 シュタイナー教育では教育者が敬虔な気持ちを尊ぶと書かれていたところに、私は心から感心していました。そういう志の人が本当に謙虚な心を知っている人であろうと想像していました。ところが、ほとんどの教師は人にではなく、教義に献身していました。それでも長い間、こんな素晴らしい教育に共感した人に誠意が伝わらないはずがないと信じていました。うまく伝わらないのはどこか自分勝手な考えがあったからだなどと思い、当惑しつつも批判的な見方を持たないように務め、善意の解釈をしてきました。次第に「崇高な理想」と「幼稚な現実」の差が見えてきます。言葉と行動のギャップに気づきはじめ、はじめに感じたわずかな違和感が何であったのかがわかってきます。目の前の人を見ず、ただ教義で決められた台詞を暗記して繰り返している人と対面したときの違和感でした。いくら話をしても、かみ合いません。見ている現実がちがうからです。目の前の現実と教義絶対という現実です。
 
 先生のなかには質問にもよく答えてくれ、わからないことは一緒に学ぶ姿勢を保ち続けた人もいます。なかには子ども好きの善人の先生もおり、日本に取り入れられない部分や突飛な教義を父母にあてはめて人を見下すようなことはしない人もいました。しかし、当時から父兄のなかにも心酔した人が多く、私のいたところは会議の前に決定事項はすべて決まっているという不自然な組織でした。
 事態が尋常でなくなろうとも、「秘密の厳守」という教義のため説明がありません。人間関係に信頼がおけなくなってゆきました。次々と事件が起こりますが、問題の原因がすりかえられ、「個人の内面の成長のため」であるとか、個人攻撃が始まります。
 批判はシュタイナーの勉強不足と言われて片付けられてしまうので、理解できないということは「教えについてゆけない」イコール「去る」しかないということを意味していました。「説明しない」園の態度を理解できない人も多くいました。そこで混乱が起こります。説明がないのですから理解できず、それに納得できなければ学期の中途でも、去るかあきらめて留まるかの選択を迫られることになります。結局、留まる人は黙って従うしかない、対等な人間関係ではないという事実を暗黙に受け入れることにな
ってしまいます。

自由への教育(シュタイナー教育)の本当の意味

 人智学を真面目に勉強している先生方や父母は、シュタイナー幼稚園に入園するということは魂のために良い選択であり、来世で次元の高い魂になるためにはシュタイナー小学校へ進むことが最善であると考えています。そこには公教育その他全てに対する否定と蔑視があるようでした。
 始めはその先生だけがそんな突飛な発想をしているのかと思いましたが、園本体の思想がこの突飛な発想そのものだということがわかってきます。ファストフード店のマニュアルのように、教師の言動のすべて、室内の装飾すべて、そして「その理由を説明してはいけない」ことが人智学で決められています。
 「幼稚園の先生も人智学を学んでいるが、それは外でなのです」という台詞を私も聞きました。教育と人智学の関連について、それ以上の答えを聞くことはできません。そう答えるのがマニュアルです。一日の過し方や子どもとの接し方を人智学に従って細かく規定し、それを人智学とは呼ばずに「子どもの発達」に合わせていると答えます。そして、人智学と教育内容とは関係がないと父母に答えるのがマニュアルです。
 現実のありのままを自由に話すことはなく、決められた台詞が間違いなく交わされるという場面が積み重ねられます。何が話題になっても答えが予想できるようになります。現状に不都合が生じても柔軟な対応はなく、進歩も改善もありません。やりにくい状態のまま、次第に父母全体が活気を失ってゆきました。
 それでも、人間は一度言葉に感動して納得すると、実際には何が起こっても一度作られた印象をくつがえすことが難しいもののようです。特に始めの1,2年は負担も少なく楽しく過ぎていきます。次第に独裁者の恣意的な運営に気づき、混乱、人間不信、不満、批判、あきらめというコースを辿ります。一方、没頭してゆく人もいます。このマニュアルを勉強し、目に見えない恣意的次元で組織の上層を目指す人もでてきます。
 シュタイナー教育とは「自由への教育」という表向きの看板を掲げた人智学という教義のマニュアルだと考えると全部納得がゆきます。シュタイナー教育の先生とはこのマニュアルに精通した人たちです。このマニュアルが目の前の現実に非常識な意味付けをし、自然な会話を演技と台本に変えてしまいます。

 今思い出す園の特徴は、幼稚な二面性とそれに振り回された父母の無力感です。それを皆で自由への教育と呼んでいます。思考停止した教義絶対服従のなかに自由はひとつもありませんでした。よく「それは、あなたの主観でしょ。」と斥けられる光景がありました。主観のどこがいけないのかよくわかりません。つまり、人の主観にではなく教義の解釈に関心があるとうことです。哲学的な言葉の響きに浸り、世の中の汚れとは無縁のように振舞っています。自分を含め、 長いマタニティーブルーから出てこられない女性をたくさん見ました。

私が学んだこと

  この園を離れてから、私は子育ての方向転換をしました。「シュタイナーは失敗だった」「ごめんね」「今からやり直せば、だいじょうぶ」「どこが良いと思って入園したか」「どこが変だと思って辞めたか」「こういうことを学んだ」などを子どもと話し合いました。今から振りかえると、シュタイナー教育は頼りない母親だった私の刺激的な反面教師となり、子育てとは人間の自然な営みであることを思い出させてくれ、人間とは本来柔軟で強いものだということを改めて教えてくれました。

これから入園・入学を考えている親御さんへ

 日本では昨年暮れ以来、子供を巻き込んだ凶悪な殺人事件が続いて起こっています。これから子育てをする親御さんは、ますます世の中に恐怖を感じることでしょう。当時の私がそうでした。わが子を守りたいという強い気持ちや新米親の不安と期待を受け止めて、現代の環境が悪化すればするほど、表向きは優しいシュタイナー教育の人気は今後も高まることでしょう。

 これから入園や入学を考えている方々は宣伝文句を鵜呑みにせず、組織の実態を調べるようお勧めします。日本にはシュタイナー教育のよい所だけを取り入れている健全な場所もたくさんあるそうです。シュタイナー教育を取り入れているのか、実践しているのかは大きな違いです。「取り入れる」とは、運営の母体が従来のままで園長先生がいます。教育内容にシュタイナー教育のよい所も含まれているということです。(親が親として自立できるよう後押しする一般的な組織) 一方、「実践している」とは、シュタイナーの説く三層構造で運営し、ドイツなど海外の教師養成コースの資格を持った先生がクラスの全責任を持っています。(子どもも親も幼稚園の先生を絶対の権威として仰ぎ見る特殊な組織)先生に高い理想に伴う人格があれば、オカルト教義部分を排除し、現実に心豊かな教育の場を作ることも充分可能だと思います。しかし、現場の教育者の人格というフィルターを通さない本家本元のシュタイナー教育の正体は教条主義の教団です。原文サイトには実際の被害が世界中から集められています。小学校には幼稚園以上にさまざまなことがあり悪影響は強大です。理解力や判断力が本格的に養われる時期に、一般の学習過程を与えない弊害は計り知れません。

 日本では「オーム真理教」や「統一教会」のような事件を起こしたカルト教団が知られています。しかし、シュタイナー教育がそういった教団に類似しているという評価が、ドイツやアメリカなどのシュタイナー先進国にあることは知られていません。
 
カルトの定義はさまざまかもしれませんが、過去の例では家族よりも教団へ強く帰属し、理想実現のためなら喜んで人生を捧げる信者の姿や理屈だけは一人前の未成熟な若者の姿が報道され、社会に名状しがたい不安感と異様さを残しました。
 私がシュタイナー幼稚園で体験したことは、社会問題になるようなことではありませんでしたが、飛躍した解釈や常識を超えた応対には、話し合いが通用しない異様さと教義に団結したときの一枚岩の脅威を感じました。
 先生方は入園する子どもは、この幼稚園に入るために今の親を選んで生まれてきたと考えており、幼稚園の先生が真にその子の魂を正しく導く存在で、親ではないと考えています。それが家庭生活や親子関係への非常識な介入が平気でできる根拠になっています。若い先生が常識を捨てられずに逡巡するようなことも、ベテラン先生は自分のことを魂救済の使命を担う精神の高い人間であるという強い自覚があるので迷いがありません。幼稚園の先生が心配事を相談する母親を突然叱るのは、子どもを低次元の親から「救いだし、正しく導く」ためだそうです。それが人智学の配慮だというのですから理解できませんでした。
 親子の切っても切れない縁を内密に否定し、自分が権威となって親も子供も帰依させようとする。帰依者にならないうちは、その事実は明かさない。これはカルトではないかと思うようになりました。

 翻訳された外国の批判手記を読んでも、これが日本でも同じように起こっているとは信じられないかもしれません。しかし、どの手記も日本での体験に酷似しています。 まるで私の知っている誰かが書いたのではと疑いたくなる程です。 世界中に教義マニュアルに忠実な教師がいるという証拠です。 マニュアルに従ってハンバーガーやポテトを作るように、自由な人間を生み出すことができるのでしょうか。マニュアルに閉じこもった子どもと大人が自由に生きる時がくるのでしょうか。彼らは常に「今」は自由になるための準備期間であると言いますが、いつまで準備し続けるのでしょうか。

 最後にPLANSの自由討論サイトで見つけた記事を引用します。シュタイナー教育の教師とシュタイナーと犯罪心理学者の三者からの引用です。 (下記参考)シュタイナー学校は世界何十カ国にあり、同じ数だけ批判もあります。しかし、日本には批判サイトも批判書籍も見当たりません。取り返しのつかないことになる前に、冷静に判断することをお勧めします。


 (引用) PLANSサイト「公開自由討論」2002年 11 月10 日 
   ダン・ダガン投稿「子どもと選択」より

    「コンピュータと教育」ロバート・シュルツ投稿より
     ユージン・シュウオルツ(シュタイナー学校の教師)
     1997年3月12日 (
WALD-@MAELSTROM.STJOHNS.EDU宛て)

(抜粋) ユージン・シュウオルツの語る大切なことの中には、十代以前の子供に自由を与えるのはシュタイナー教育ではふさわしくないというものがある。シュウオルツは、20年余にわたる教職経験に基づいて、こう述べている。子どもに選択の自由を早く与えると、教師や父母へ対する自然な尊敬の態度が損なわれると強調する。子どもが時には成長の糧とし、時には反発の対象として必要とする「愛する権威」を失うことになると言う。このあこがれと反発の過程が子どもの思考と信念を育て、青年期になって大きな自由を得るとき、確信にかわると言う。


     ナンシー・パーソンズ(BobNancy Service)投稿より
     1999年3月23日(
WALD-@MAELSTROM.STJOHNS.EDU宛て)  
     「社会変革の力としての教育」
www.bobnancy.com. より貼付

 親愛なる皆様へ
 次の二種類の見方を比べてみてください。

8月12日3時 ブルース・ジャックソン
  子ども自身が何がいけないのかわかっていなければ、どんなルールも役に立たない。

次は、ライズ・スミス・フリード
  それぞれの子どもの力量に応じた範囲で、常に子どもに自由とコントロールの力が委ねられているべきである。親も教育者も、子どもが行使できる範囲の自由とコントロールを正しくみきわめ、時を逃さず自由とコントロールの力を与える。

そして、下記と比べてみてください。

  この段落は、1919年8月9日ドルナッハで行われたシュタイナーの演説の正確な要約です。

 『シュタイナーはこう述べている。

 子どもが自由な大人になるよう教育したいと思うなら、七歳までは、尊敬に値する人間を完全に真似ることができる環境を与えてやることです。そうすれば、彼らが大人になったとき、同胞に対して同じようにするでしょう。そして7歳から14歳までは、真の権威を子どもの前に示さねばなりません。将来、共同体の主旨と人間愛に従って、共同体の経済面、物質面にわたる決定を下すことができる大人になるためには、十代のときに、周囲の大人が常に愛情をもち最大限の理想にそってその子を導く必要があります。つまり、未来の大人たちが自由と平等と共同体を獲得するためには、子どもの頃に真似をさせ、従わせ、尊敬させる必要があると言えます。』

  シュタイナー教育を心豊かな育児法であるとして積極的に取り入れようとする教師や親が、「子どもに選択の自由を与える」という一般的な考え方(ブルースとライズは同じ一般的見解を挙げている)と自分たちの求めていることが相容れないとするのはどういうわけかと思ってしまいます。
「選択の自由」はまず批判的な考え方が充分育ち、次に判断力が備わってから可能になります。シュタイナーの説く人間の成長段階の見方からしても、一般的に見ても分かるように、批判精神は、14歳か15歳ごろから、判断力となると21歳ごろまでは備わりません。教育者の求めるそれぞれの発達段階で子どもは、真似をし、従い、尊敬しているのであり、選択の自由を与えられているのではありません。           
ナンシー


    「ミレニアムが来た。カルトにもミレニアム(黄金時代)が来た。」
     -カルトに巻き込まれない若者を育てるには -
     リタ・リンザー・シュウオルツ(犯罪心理学者)
     2001 年「カルト研究ジャーナル」第18 巻  p95-96 引用部分

(抜粋) 思春期の子どもにはカルトの巧みな誘いに乗らないよう抵抗力をつけておく必要があります。そこで、今私たち大人にできることがあるのです。 それは、お子さんがごく小さいときから始められます。2歳くらいからでも始められます。どんなことであれ、 お子さんが選んだことの結果は自分が受け入れるように教えることです。結果に影響のないことから始めます。たとえば、今日は何色の服を着るかといったことからです。 お子さんは選ぶことに慣れてゆき、選択の結果に従うことを覚えてゆきます。大きくなるにつれて選択の幅を広げてあげます。時にはお子さんが思ったよりも小さな影響しかでないこともあるでしょうが、それ自体がひとつの勉強です。責任を取るという行為は今日の社会にはめったに見られなくなりましたが、真の大人の行為です。こういうことをするのには、お子さんが自分以外の人に決断させ、それにかこつけて責任を取らないという態度を防ぎ、自分の中に本当の自制心を育てるという目的があります。


 なぜ本当のことを言わないのか

  この幼稚園にいて疑問に感じたのは次のことです。なぜ説明が必要なときに説明しないのか。目の前に困っている人がいるとき、助けようとしないのはなぜか。上下関係を押し付けるのに、ないと言い張るのはなぜか。なぜ発展しようとせずに、必ず何割か去る人間がいることに頓着しないのか。なぜ嘘が平気なのか。
 幼稚園全体が「シュタイナー教育の実践の場」という学びの場だからという答えをもらったことがあります。そのときは何を意味しているのかわかりませんでしたが、後になって、それがカルトというものなのだろうと考えています。

 次のようなシステムで成り立っている組織でした。
  まず、構成員を階層分けします。自分が上層にいる階層です。「理想教育の実践」という見せかけは絶対必要です。人間の階層分けと理想教育の仮面、これが核だと思います。二面性を指摘されても認めません。それを認めたら、秘儀と権威志向、エリート主義を認めることになり、自分の居場所である特権階級を否定しなくてはいけなくなるからです。また、理想と二面性とは相容れないので嘘が顕わになってしまいます。だから、本当のことは言えないのでしょう。
 
理想が本当なら誤解を生む二面性をやめればよいでしょう。誰にでも分かる言葉で理想を伝え、自分から率先して謙虚になればよいのです。現にそういう健全な場所もあると聞きます。
 人智学を決定付ける特徴は二面性です。秘儀についていける(二面性を受け入れられる)人とついていけない人に分け、全員がはじめはついていけない所からスタートすると考えているため、年功序列が出来上がります。彼らには嘘をついているという意識はなく、新参者には難しすぎるからわからないと信じています。それが「秘密の厳守」の意味であり、二面性を肯定する根拠になっています。


神秘主義の悪用

  日本の精神文化にはもともと神秘主義的な土壌があり、教育方針に神秘的側面が見えても警戒することはありません。むしろ忘れ去られた大切な精神を取り戻すことができると心洗われる想いで親しみを感じます。しかし、神秘を受け入れるといっても、それは目に見えないことを軽々しく口にしたり、未消化のまま他人に当てはめることではありません。これが大きな誤解です。宗教観や道徳観以前に、神秘(目に見えないこと)と白昼夢や幻想(夢想)とを混同することが間違いだと思います。
 そんなあたりまえのことを、私はいつしか混同していました。それが一番恐ろしい点だと思います。人は誰でも先のことや、あるときは自分のことさえわからないのがあたりまえであり、それで私たちは充分幸せです。それは誰もが心のどこかで無意識にわかっていることだと思います。それがこの組織に慣れてくると、騙す方も騙される方も、無意識のうちに、家族よりも縁のうすい間柄である幼稚園の先生や先輩父母にほんの数年の付き合いのなかで、魂の奥底を言い当てられるような錯覚や、本からの知識で人生が解釈できるとか、人生の知恵が得られるかのような錯覚を作り上げてしまいます。ここでは常識ではありえないことがあたかも真実であるかのように皆が振舞っているからです。違和感を覚える方が正常なことでも、多勢の人がひとつの解釈に従って行動しているなかでは、正常な感覚が次第に浮いていくのです。
 目に見えないことに解釈を与えることが知性ではないと思います。たとえ目に見えないものを見る力があったとしても、それを人格や精神の高さなどというこれも計測できないものとつなげて考えるのは、おかしいことです。それぞれがまったく別のことを同一にし、統一世界どころか混乱をさらに複雑にし支離滅裂の状態にしてしまったようにみえます。

  シュタイナー教育に心酔してゆく人には共通点があるようにみえます。戦略的な会話術、完璧な振る舞い、かたくなさなどです。なかにはふつうは見えないものが見えると言う先生もいました。PLANSのエッセイを読んで、あの先生の意図が初めて分かりました。シュタイナーのように位が高くなると、超能力が備わるという解釈があることはあまり知られていませんでした。見えない人より一段上の自分であると公言したかったのでしょう。人間を階級に分け、自分が高い位にいることを暗に認めさせようとしていました。それでいつも会話が劇中劇のようにぎこちなく、用意された教義の台詞しか聞くことができなかったのです。この組織に深く関わった人の心には、一体何が起こってしまうのか暗澹たる思いにかられます。 

 一部の日本のシュタイナー心酔者には歪んだ心理があるようです。白人優位主義は、ある意味、白人の陥りやすい轍(わだち)かもしれませんが、その轍になぜ日本人がはまらなければならないのでしょう。理想の教育を求めた結果ならば、その正体に近づくにつれ、自分自身の真実と衝突し目覚めるときがくるでしょう。知ってか知らずかそこから目を背け、シュタイナー教義に自分を合わせていく人たちの一部には、他民族に謂れもなくひれ伏し、自国へ帰り居丈高に振舞う姿があります。プランズのエッセイに書かれているわたしたち皆に必要な態度であるという思いやりと謙虚な心に加えて、日本人シュタイナー心酔者には本当の自信を思い起こして欲しいと思います。

ページトップへ戻る