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季節のテーブルか、祭壇か     
   Dan Dugan
1997年7月27日
July 27, 1997 Nature Table or Altar?    Dan Dugan
-Waldorf Curriculum and Anthroposophy in the Classroom
-Articles


 (写真)―1997年5月7日 カリフォルニアのサクラメント オークリッジ小学校内、幼稚園教師、ローレン・ライスの装飾による教室 (ダン・ダガン撮影)

 1997年5月7日。オークリッジ小学校を訪れたひとりの公学校教師が、集まった父兄に問いただした。「あの祭壇は何ですか。」その日は、学校長のジム・スイニーから「シュタイナー教育」について話を聞く日であった。質問はシュタイナー学校の歴史にまで及び、季節のテーブルには宗教的な意義があることを含んでいた。

 私が訪れた低学年の教室には、どの教室にも季節のテーブルがあった。季節のテーブルは、シュタイナー教育の重要な一部である。教師は季節ごとのテーマにそって、草花や木や岩、ろうそく、メノーラ(7本枝の燭台)、よく磨いた水晶などを芸術的に配置してテーブルをしつらえている。

 教育の文献には季節のテーブルについて書かれたものは少ない。作り方はベテランの教師からの口伝えによって受け継がれている。このテーブルの美しさが外部からの見学者に取り上げられることはあっても、意義について尋ねられることはあまりない。

 スタンフォード大教授のブルース・アーマーチャーは、2年生の季節のテーブルについて、こう書いている。

教室の左端に茶色の葉、かぼちゃ、松ぼっくり、花々で覆われたテーブルがあります。なめらかな表面の灰色の石がひとつと白いろうそくと金色の蝋燭消しが、自然と一体になって並べられています。(Uhmacher, P. Bruce. Waldorf Schools Marching Quietly Unheard.(Dissertation, Stanford School of Education) May, 1991, p.90)

 続いて3年生の季節のテーブル

グレゴリアン氏がフルートで中央のハ音を吹き、手のひらを下に向けて音階を示すと、生徒がそのとおりに上昇音階をハミングで歌います。音階が下がり止められるまで最後の音が聞こえています。教室の前にある季節のテーブルを見ながらこの合唱を聞いていると、古代の響きを感じます。松ぼっくりとろうそくと木の小人とてんびんが赤い布の上に置かれ、それよりわずかに高く一冊の大きな聖書が青い布の上に置かれています。聖書の上には天使の絵が掛けられ、そのとなりに黒板があります。壁の反対側にあるグレゴリアン氏の机の後ろには、ノアの方舟の小さい絵があります。自然を背景に芸術的に配置された絵は、3年生のテーマである旧約聖書の世界を映しだしています。(Ibid, p. 132)

 サンデイエゴにあるヴァルドルフのチャータースクールに関するWestEdレポートには、こう書かれている。

私が調査した幼稚園では、子供たちがおやつの前に感謝の歌を歌っていました。歌には、はっきりとした宗教的な表現はなく、家具や教室の後にある「季節のテーブル」と呼ばれるテーブルがピンク色のガーゼで覆われ、ひだを作っていました。テーブルには、自然の物質や「大地のお母さん」の布人形が対称をなして配置されていました。(WestEd. From Paper to Practice: Challenges Facing a California Charter School: Technical Report. WestEd 12003, May 16, 1996, p. 44)

 ワシントン州立大学教授は自身が調べた学校の季節のテーブルについて、こう書いている。

「季節の庭」は幼稚園、1年生、2年生、3年生に共通する特徴です。石、貝がら、小枝、木といった自然界の物質が、白い亜麻布で覆われたテーブルに置かれています。テーブルの周りには、パステル色に透ける薄い綿モスリンが上からひだを作って飾られ、教室の中心が季節の庭にあることを表しています。決められた時間に、ここに飾られた手作りのみつろうろうそくに火が灯され、自然を崇拝する詩を暗誦します。(Henry, Mary E. School Cultures: Universes of Meaning in Private Schools. (Washington State University) Norwood, New Jersey: Ablex Publishing Corp. 1993)

 「自然崇拝の詩」とは、いかにも敬虔な宗教行為に聞こえる。人智学があらゆる自然に霊的な意味があるとする宗教であることを考えれば、この行為に宗教的な本質があることは明らかである。低学年クラスでは季節のテーブルに中心的役割があるとするヘンリー氏の指摘は、このテーブルが教師や生徒が自然への敬意を表すための一種の祭壇になっているという解釈と符合する。ここで行われる行為や儀式の一部は、寺院や教会の祭壇で行われるものとよく似ている。
 ろうそくには儀式的な目的と教育的な目的とがある。実際に燃える炎を現出させることによってその場を神聖なものにし、子供達の注意を一点に集めることができる。

 集中した状態が教室内の雰囲気を作る。これには教育的な意図もある。まず、教師も生徒も次に始まる活動への準備ができ、教室で起きる出来事に心も身体もすっかり浸ることができる。一種の予告である。しかし次の活動の内容に集中する代わりに、雰囲気ややり方に注意が集まってしまう。このためタイミングよく、ろうそくに火を灯すことが詩やお話に入る準備を整える。(Uhrmacher, P. Bruce.  Waldorf Schools Marching Quietly Unheard. (Dissertation, Stanford School of Education.) May, 1991, p.103)

 アーマーチャーは本格的な朝のお祈りの儀式を描写している。ベルとろうそくの儀式的な使い方と、生徒が祈るときオカルト信者のような態度であることに注目してほしい。

時計が8時50分を指すと、ブロンテ女史(2年生の教師)がすっと教室の後ろへ行き、明かりを消してこう言った。「では、今朝の黄金の音をしましょう。まだ、やっていない人。」何人かの生徒が手を挙げ、黄金の音を鳴らすのにアリアーナが選ばれると、ブロンテ女史は期待と不安に胸が高鳴るという様子で、はじめて木琴を持つように木琴を取り上げた。アリアーナが指を一振りして黄金の音を奏でた。暗くなった教室で、みんなが静かに聞き入った。

次に、ブロンテ女史が季節のテーブルに置いてある灰色の石でマッチをつけた。全員が唱和する。「ろうそく、ろうそく、燃える火よ。愛にあふれた光に感謝します。」生徒は立ち上がり、胸の前で腕を交差させ、シュタイナーの詩を暗誦する。この詩は、わずかな違いがあっても、1年生から4年生まで、どのクラスでも同じ詩であるという。

    『太陽の愛にあふれた光は 私の一日を明るく照らします。
    魂のなかの霊の力は 手と足に力を授けてくれます。
    太陽の光の輝きのなかで、神さま、私は、いっしょう
         けんめ  い勉強できるようにあなたが私の魂に授けて
        くださった、人間の力をうやまいます。
    あなたから、光と力がやってきて、あなたへ、愛と感謝が
         流れていきます。』
    (「霊学の観点からの子どもの教育」松浦賢訳176頁 
     イザラ書房)

子供たちはこの言葉を完全に暗誦している。次に手の動きをつけて、もうひとつ歌を歌った。それから、注意深くろうそくを消し、・・・・・・
(Uhrmacher, P. Bruce. Waldorf Schools Marching Quietly Unheard. (Dissertation, Stanford School of Education.) May, 1991, pp.108-109)

 季節のテーブルは、シュタイナー教育の二つの補完的な側面を物語っている。ひとつは、子供達に対して教師が演じている役割である。3年生までは、教師は聖職者の役割を演じると考えられている。聖職者の姿をした人間が注意を集めるのに祭壇をもっているということが、この役割を決定づけている。

 そして、生徒が敬虔な雰囲気をもつことが、教師が聖職者の役割を演じることをもう一方から補完している。シュタイナーはこう言う。

『エーテル体は、「尊敬と畏敬」の力をとおして正しく成長します。今お話ししている年齢(七歳から十四歳まで)に、限りない尊敬の念を抱いてある人物を見上げる体験をしなかった人は、のちの人生全体において、大切な何かが欠落することになるでしょう。このような尊敬の念が欠けると、エーテル体の生き生きとした力が枯渇します。』(「霊学の観点からの子どもの教育」松浦賢訳 74頁イザラ書房)
(Steiner, Rudolf.「霊学の観点からの子どもの教育」 (1909) Trans. George and mary Adams. London: Rudolf Steiner Press, 1975, p. 31)

 季節のテーブルには、少なくとも子供達に自然に対する敬意を育てる意図がある。これには誰もが同意できる。しかし人智学信者にとって「自然」とは、現実社会にある以上のものになる。人智学では自然界のあらゆるものが精霊たちの住処であるとしていることを考えると、季節のテーブルもおのずと生き物が住む場所になる。シュタイナーは彫刻したものも形と色で霊を惹きつけると教授している。

シュタイナーは私たちの周りにはさまざまな種類の自然界の生き物が存在していることにもっと気づいてほしいと言っています。周りの自然環境に影響を受けて、無意識のうちに自然界の生き物とエーテル体との関係ができると言います。「彫刻で作られた形には、エーテル体の五感で知覚できない部分と同じところがあり、それが近くにある形や生き物に惹きつけられ・・・・・・」

同じことが色や絵画にも起きています。「私たちは自分の周りにある色をとおして霊的環境の存在とつながることができます。この存在が霊的な真実にめざめるために必要な活動をするとき、エーテル体のなかで助けとなります。・・・」
(Adams, David. “The Goetheanum as White Magic, or Why Is Anthoroposophical Architecture So Important?” Jounal for Anthoroposophy, No. 64, spring 1997, pp22-23)

 子供時代に敬虔な態度を育てる訓練をすることは、大人になってから献身的な人となるための準備であるとシュタイナーは述べている。

霊的な道を進む人は、この基本姿勢を敬虔な精神へ至る道、真実と知識に専心する道と呼びます。この土台となる感じ方や態度を備えた者だけが、秘儀を学ぶ弟子となることができます。のちに秘儀を学ぶようになる者は子供時代からこの資質を表すということは、この分野の者なら誰でも知っています。子供たちのなかには、神聖な畏敬の念をもつ者もいます。深い尊敬には、心の最も深いところに休息を与え、どんな批判や反対の声をも禁じる働きがあります。そういう子供が若者になると、敬虔な気持ちで満たされたときに喜びを感じるようになります。そして、そういう若者が秘儀を学ぶ弟子となってゆきます。・・・・・・このような感情が追従や奴隷性格につながるのではないかという心配には及びません。反対に、子供の敬虔な態度は真実と知識に対する敬意へと発達してゆきます。どんなときに敬虔な気持ちを感じるのがふさわしいのかわかっていれば、人がどのように自由に向かって進んだらよいかというとき、正しい判断ができるということを私たちは経験してきました。敬虔な気持ちが心の奥深くから自然に沸き起こってくるなら、それがふさわしいときなのです。
(Steiner, Rudolf.「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」 (1904) Trans. Christopher Bamford. Hudson, NY: Rudolf Steiner Press, 1944, pp 16-17)

 「どんな批判や反対の声」も禁じてしまうというのは、みごとなマインド・コントロールのように聞こえる。さらに、シュタイナーは疑いをもたない専心が自由へつながるとまで言っている!グルのトリックである。

 私は権威的な記述をひとつ見つけた。教師養成コースの基礎にある本のなかで、シュタイナーはこう言っている。

ゲーテは7才のときに、自然を祀る祭壇を自分で作りました。父親の譜面台を持ってきて、その上に父親の植物標本室から取った植物や鉱物をのせ、香料の入ったろうそくを立てて仕上げをしました。そして、天日取りレンズで朝の日差しの焦点を合わせ、ろうそくに火をつけ、偉大な自然の神を奉り、教育によって与えられるすべてに対する反抗を誓いました。
(Steiner, Rudolf. Practical Advice to Teachers: Fourteen lectures given at the foundation of the Waldolf School, Stuttgart, from 21 August to 5 September 1919.(1919) Trans. Johanna Collis. New York: Anthoroposophic Press, 1988, p 113)

 ここには、はっきりと書かれている。「自然を祀る祭壇」、「偉大な自然の神を奉り」そして、7才は当然1年生である。

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