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感謝の手紙  
Suzanna Slack
         2004年3月4日 

原文参照
March 4, 2004 Testimonial :Sent to the PLANS webmaster
Personal Stories of Former Waldorf Parents, Students, Teachers, Administrators
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 感謝の手紙をお送りします。

 私は幼児サークルのときから参加していたので、シュタイナー学校にはかなり長くかかわりました。幼児サークルには私自身がとても癒されましたし、一才半の娘にも素晴らしい環境でした。娘は、まだ歩く前から言葉がとても早く、色々なことをおしゃべりしていました。物分りも早く、人との、特に大人との触れあいが好きでした。同じくらいの年頃の子供とも仲良くしましたが、大人と話す方が好きな様子でした。それを見て、この幼児サークルなら、私たち親子の一時救済所になってくれそうだと思ったのです。実際、そうなりました。歌をたくさん歌って、あまり知能に働きかけないし、週に数時間を過ごすうちに小さなお友達もできるようになりました。

 とてもうまくいっていました。週に3回行った時もありました。私はだんだんここに依存するようになり、考え方もそうなりました。自分の人生でずっと見失っていたものを、ここで見つけたような気がしました。もちろん、そんなことは娘には関係ないのに、これは娘のためだと自分に言い聞かせていました。小さい子供や赤ちゃんがいる女性は、共同体を作って、色々と悩みを分かち合うものですが、私の周りには他にこういう場所がありませんでした。

 娘の名前が幼稚園にも伝わるようになり、おもちゃはシュタイナーぽくなってゆきました。娘がどうしても欲しがるような本は、こっそりシュタイナー的なものに変えたり、テレビは部屋から消え、部屋をピンク色にしたりもしました。娘がちょうど幼稚園に入る頃、油圧式のしくみに興味を持ち始めました。バスのドアなどの油圧式があると、すぐ気がつくのです。私が始めて疑問を感じて胸が痛んだのは、この時です。娘が知りたがっているのに教えないというのは、ほんとうに妙な感じでした。でもそのときは物質的で科学的で、この子には早すぎると思い込んでいました。私はバスに座って娘に答えながら、自分が何かに逆らっている感じがしたのを覚えています。娘はそのときまだ3才でした。

 幼稚園は最悪でした。そのことでは、あまり落ち込んではいません。ただ、次の年も来るように皆に説得されたのには落ち込みました。娘が4才半のときです。今、7才になるのに、幼稚園であったことが、いまだにでてきます。この傷は一生消えないと思っています。

 いじめはひどいものでした。先生は無視するか黙って見逃すか、ただどうしたらいいかを示すだけでした。あるときは目の前に座っているところで、男の子が強く蹴ったと先生に言うと、歌を歌うような声で「あら、この子がしたとは思わないわ、そうでしょ。」と言われました。

 他の女の子たちは娘の周りに組織的にグループを作って、お絵かきのときには必ず娘の描いた絵を批評していました。娘は今も、同年代の女の子だとどんな子にも、とても気を使い喜ばせようとします。幼稚園は、象徴画を描く所でも年齢に合わせた課題がある所でもありません。ただ丸いクレヨンと紙があるだけです。それが、そうはいきませんでした。毎朝、「それじゃ、ハートにみえないわ」と笑われて、他の子が基準にしている完璧なお姫様のようなハートが描けるまで、ハートを描かされていました。大きい女の子はそういうことはせず、年齢なりに磨かれたいじめをします。

 たったの3才です。娘は、それまで自分の描いたものが他人にどう見えるかなどに注意を払ったことはありませんでした。おそらく、それは先生がろうそくに火を灯し、エプロンをつけて、ライス・プデイングとりんごとシナモンを調理している頃か、小人さんを作っている時のことだったろうと思います。

 娘の先生は、怒ったときよく娘の腕を強くつかんでいました。娘は、先生がそばにいるときは、たいていおもらしをしていました。トイレに行くには冷たい石の廊下があって(とてもきれいな古い教会でしたが)もうひとつのクラスを通り過ぎなければなりませんでした。トイレには一人で行かなければならず、大きな重たいドアのアーチを通って、もうひとつのクラスは騒がしくて子供たちは恐いし、変な先生が忙しそうにパン生地を作ったり、小人を作っています。それで、娘は一人で行かれずにパンツに用を足していたのです。うんちをしてしまうこともありました。他のお姫様たちは、それを見て笑います。娘がまだ3才半だということは、もう言いましたよね。翌年、4歳半です。まだ、小さいです。休み時間にもからかわれて、時々もらしていました。(しょっちゅうでした。子供たちはどのくらいおもらししていたか知らないと思います。先生も知らなかったと思います。先生は、ただ着替えをするよう、私に娘を渡すだけでした。)

 今も昔もあの学校の子供たちは、とても怒りっぽい様子をしています。親が、議論に夢中になり疲れきっているし、外見を競わなくてはならないし、仕事もがんばらなくてはいけないからです。特定の有機自然食品を買うため、北ロンドンでヨガをする奥様のライフスタイルを続けるため、それに、ここの授業料も払わなくてはいけないし、それに、時間もあけておかなくてはいけない・・・これでは、皆おかしくなってしまいます。本当に短絡思考です。クレイジー、パラノイドです。皆、そうです。
 私は、はっきりとはここに属している気がしていませんでした。質問をして向かっていったので批判されました。娘を幼稚園に行かせないで状況を悪くしている。なぜ幼稚園の先生やお友達に、家族のように助けを求めて解決しようとしないのか。とうとう気がつきました。この子にはすでに家族があります。こんな怒り狂った仲間争いのなかでも、ピンク色の神様の住む地獄の毎日でも、ちゃんと信念をもっていけるとこの子を信頼している家族です。ここを新しい家族だと思う方が歪んでいると思います。子供が混乱するだけです。

 親が神経質だったり、真面目すぎたり、意地悪なところがあると、子供にも影響します。だらしない、神経質、恥ずかしがり、自己中心、ステイタスを追う、上昇志向、暗い、挑戦的、暴力的などです。どこも同じです。天使のように愛らしい幼児がこの園の門をくぐり、ほんの数ヶ月で怒り狂って混乱した小さなモンスターとなって現れるのを、いくどとなく目にしました。娘はいまだに回復していません。一年目には一ヶ月半だけ通いました。私が教訓を学べずに、二年目ならうまくいくかもしれないと思って、二年目も一ヶ月半通いました。

 二年目も最悪だったとき、やっと私は、この学校が娘によい影響を与えることは何一つないと悟りました。この子が赤ちゃんのときの出会いが夢のように素晴らしかったからとはいえ、私は自分の自尊心の問題のせいで、ほんとうは幼児サークルで嫌なことがあったのにずっと意識的に忘れていたのです。熱心な信奉者には、私や他の人のことは目に入っていませんでした。いつもいつも私たちの方を見ても、すぐに自分たちだけで話し始めていました。学校運営をしている人たちは、私が幼児サークルを主宰しようかと申し出たとき、あざ笑い、養成コースに行かなくてはいけないと言い、ほかの人にやってもらえないかと持ちかけていました。私は何がどうなっているのか飲み込んでゆきました。魂の生まれ変わりのことは読まなくてはいけなかったので読みましたし、火の試練を経なければいけなかったし、子供は幼稚園の先生にお任せしなくてはいけませんでした。それから問題があるといえば医者です。(かわいそうな子が一人いたのを覚えています。問題があると言われ、人智学の医者に診てもらい、解決策がみつかったと言われていました。)また、ある程度の時間、奉仕しなくてはいけませんでした。(私たちはやりました。夫は教室の床を掃除しましたし、私は小人を作りました。)(私たちのように)納得したら、できるだけお金を寄付しなくてはいけませんでした。安くなった保育料と引換えに、もっと時間を費やすように言われました。「この学校のやり方だし、ほかに方法はないのですよ。皆、順番なのです。」やりたくなくても?他の方法があると思うのに?新しい良い方法でも?私には納得できませんでした。そして、辞めると言いました。すると、「辞めるのなら、娘さん自身もここがよかったと思うことはないでしょうね。子供の問題をあなたがつくったことになりますよ。」と言われました。私は、はっきり言われてよかったと思っています。どんなに意地が悪くても、本当のことですから。

 世の中の大多数の常識に満足しているなら、お子さんをシュタイナー学校へやってはいけません。おかしな教義があって時々荒れるような海を信頼してはいけません。子供を手放し、自分の直感を手放して、そんな海の中に飛び込んではいけません。もし世の中に満足していなくて、この海の中で生きていくというのなら、お子さんには、おそらく自分自身を育てるチャンスはあまりないと思いますよ。親が失うものは何もないかもしれません。カルトに入って手仕事をして、すてきな歌を歌って幸せな日々を送っているようなものです。幸せにだけ注意を向けて暗い不吉な部分は見ないようにすればいいでしょう。もし見てしまえば、そのときから健全な共同体とは言えませんしね。でも、住んでいる共同体が健全だったことなんてありましたか?結局、私たちの社会には、もう共同体などないのです。自分ができる所でつかむしかないのです。あの気味の悪い世界には、気持ちを向けないことです。いずれにしろ、あの世界はあのまま続いていくことでしょう。そこに歌と手仕事と祝祭のあるかぎり!

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