一般文書・批判記事 目次へ戻る

邪悪な秘密
(幻想を追いかけて過す日々)
Roger Rawlings

原文参照
Unholy Secret
Waldorf in General, Description & Critique
Articles 

序文  このエッセイは3つの構成から成る。回想録、回想録へつながる概観、シュタイナー教義の例示である。このなかで私は自分の信用を落としかねない表現を多く用いているが、全部読んでいただければ広範囲にわたる証拠が、この信憑性を裏付けていると確信する。このエッセイを書くには自分の記憶に頼らざるを得なかったので、記憶にはできるだけ正確を期した。多少のくい違いがあっても、最も伝えたいことは主にルドルフ・シュタイナーの本からの引用文がよく伝えてくれている。まず、途中を飛ばさずに最後まで通して読んでほしい。それから脚注を見ながら、本文を読み進めていただくと圧倒されることと思う。シュタイナー教義は膨大かつ複雑である。楽な道ではないかもしれないが、是非おつきあいいただきたい。

T 学校時代は黄金時代

世界中で極端主義の宗教が市民社会に深刻な脅威を与えている。ここアメリカでも極端主義の宗教(とりわけ、キリスト教系原理主義に則った教義絶対主義[訳者注] を指すが、これだけに限らない)が国家の知性と道徳の基盤を脅かしている。宗教に関わりをもたない人道主義へのこうした圧力が次世代に恐るべき災禍を招くことと思われる。現在どれほど多くのアメリカの子どもがさまざまなタイプの宗教学校で教化されているか考えてみて欲しい。宗教学校の主流である学校にで、まだ判断力を持たない年齢の子ども達が、自分達がどんな信条のために生きるのが(死ぬのが)望ましいかを教えられているか考えて欲しい。アメリカの宗教学校のどれ程多くが、教義と対立する純粋な学問を子ども達に教えているか考えて欲しい。賢明で心が広く理性的で人道的な卒業生をどれほど輩出しているか。我々市民全員の、そして、あらゆる国家の求めているのは理性的で人道的な市民である。

 [訳者注]絶対主義(イエス・キリストの救い・啓示が全人類にとって唯一無比のものであるとする考え方)

私が受けた学校教育はそういう種類のものであった。私は7歳から18歳という全少年時代をオカルト学校で過し、民族黙示を予言した神秘主義者を崇める風変わりなキリスト教異種に洗脳された。私は生徒として、変な体験をした。それは正常の範囲をはるかに超えたものだった。しかし、よく考えていただきたい。私がその時体験したことを、セクトやカルトや教義というさまざまな形式をもつ学校の中で、現在も体験している子ども達が増えているのである。そこで、私のささやかな物語を教訓としてお話したい。これは子どもが熱狂的宗教の訓練を受けたらどうなるかという話である。キリスト教系教育機関、カソリックの学校、正統派ユダヤ人学校、カルト系、そして世界中に900近くあるシュタイナー学校の子ども達のことを考えてほしい。自分たちの神のために戦う準備ができている子ども達である。精神的、道義的、さらには身体的にも戦う準備のできている子ども達のことを考えてみてほしい。

 私は1950年代から1960年代の始めまで、ニューヨークのガーデン・シテイ・シュタイナー学校に通った。素敵なキャンパスだった。思いやりのある先生と明るくて注意深く選ばれたクラスメートがおり、私は気に入っていた。シュタイナー学校は、真実は宗教学校であった。ただ普通ではない種類だった。信仰を隠していた。特定の宗派ではないと断言していた。(全部がそうではないにしても、大体は特定の宗派ではない学校だと思っていた。)

説教も賛美歌もなかった。ただ、おかしなオーラが漂っていた。どの授業どの活動でも、何も語られないが、ある精神的な雰囲気がよく浸透していた。私たち生徒には全員分かっていたが、語られることがなかったせいで何であるかをはっきりと確信することはなかった。時々それが何かというヒントが現れることがあったが、本当に稀にしか現れなかった。

 卒業して数年した頃、これまでで一番大きいヒントが現れた。その後まもなく、私はシュタイナー学校で自分に何があったのかを完全に把握した。1979年の始め、ニュー・ヨーク・タイムスの記事に「サイキック(超能力者)の元生徒の影響に揺れるシュタイナー学校」とあった。[1]図書館でこの記事を見つけた私は衝撃を受けた。シュタイナー学校卒業生の一人が、霊と交流できるなどの超常現象を起こす力があると言い出したとあった。そして、校長、ハイ・スクールの校長、元校長を含め、それを信じた教師が何名かいたのはショックだった。その生徒は真に媒体者であった。その結果、その若者が学校の実権を握り、重要事項から仔細に至るまで霊感による決定を下し、運営し始めたのである。校長ほか皆が若者の勅命に従った。この異常な運営采配の噂は当然洩れてゆき、この学校のオカルト本性が現れ、すぐにお定まりの結果となった。

 タイムスの記事によれば学校は内部分裂寸前であった。「サイキック」元生徒の影響は学校の中にひとつの派閥を作るまでに広がり、他のメンバーが憤慨し会議を開くと、元生徒の運営を支持する人たちの辞職を求めたとある。この圧力に屈した校長以下元生徒の取り巻きは退職した。学校の受けた影響は壊滅的であった。何が起こっていたのかを知った親が大勢子どもを辞めさせて出て行った。学校はお終いかのようにみえた。そして、いつものように最後には危機一髪のところで生き延びた。シュタイナー学校は今もそこにあり、毎年何名もの卒業生を世に送り出している。今もシュタイナーへの忠誠を公言し、カリキュラムにはこのオカルテイストの教義が満ちている。ルドルフ・シュタイナーはカリスマ性のある精神的指導者である。1912年に独自の宗教システムを確立し、人智学(人間の知恵という意味)と名付けたオーストリア人である。そして複数の神秘教義を合成したものがシュタイナーの根底にある信仰である。[2]

 私が過したガーデン・シテイ・シュタイナー学校をどう説明したらよいだろう。そこでは生徒に何をしていたのか。(他の記事には今日の学校の様子が描かれている)私の目的はシュタイナーの教義を福音とする運営陣が運営するシュタイナー学校に通った場合、その影響が一生にわたってどんなものであるかを論じることである。私たちの学校は秘密の学校であった。先生(だいたい私は尊敬していた)がこの教育意図を詳細に説明することはなかった。人智学に触れることもめったになかったし、口にだして教えられることもなかった。実際に人智学の知識の殆んどない先生もいた。先生全員がシュタイナーに忠誠を誓っているわけではなかった。それでも、どんな理由からかは分からないが、教師陣は口を閉ざしていた。そのため学校にいるときには学校の真の使命は分からなかった。今になって昔を思い出し、相当量の調査をしてようやくはっきりと説明することができるようになった。

あるレベルでは学校の使命は単純明快である。生徒の精神的、情緒的、身体的、霊的能力を高めることである。これがシュタイナー学校が普段掲げている学校目的である。(北米シュタイナー学校連盟ウエブサイトを調べてください。awsna.org 「シュタイナー学校では芸術が教育を頭と心から手足まで子どもの全体に行き渡らせると考えており、教師は教育をそのような芸術に移行するよう腐心する。」)たぶん、私たちの学校ではこれが全容であると思っていた先生が多かったと思う。先生方は善意で私たちがよい人間になるよう努力していてくれたのである。

しかし、教師陣のなかでも真に人智学を信じる人たちは、シュタイナーの深い意図を知っていた。シュタイナーは人類の遠い未来を見通し、未来発展への道のりがみえると言っていた。シュタイナーを受け入れていた先生はみな同じ振る舞い方で暗にそう示していた。これは先生方が私たち生徒が進化の階段を揃って昇っていくように訓練していたということである。進化の階段とは、完成された人間となり予言者の視界がひらけ、数えきれないほど転生を繰り返した後、神のような共同体の一員となって精神の王国と不変の霊的交感を行うことができるようになり、最終的には純粋な霊となって肉体から解放されるということである。

 このような特殊な育児学は器用に扱わなくては実現できない。シュタイナー教育のプロセスは用心深く繊細である。真に人智学を理解した教師は教義を口に出して教えず、生徒を型にはめて従わせようとする。暗黙のオカルト教義を型通りに実行させる。超常現象に強いあこがれを持たせ、精神の王国は真実だと信じるよう静かに仕向けていく。

 すべては優しく行われる。学校時代は楽しかった。低学年のときは、祈りで一日が始まり(誰も祈りとは言わない。大地と太陽と霊と感謝を歌った感じのよい2行連句の詩だった。)数学や地理や歴史を合い間に入れながら、神話と聖書物語の授業があった。教科書はない。生徒は先生が黒板に書く内容を写す。「週の読み物」も「デイックとジェイン」もなかった。生徒は机に頭をのせて先生が読むのを聞いていた。魔術や神秘のお話が多かった。編物や単純な木管楽器の演奏を全員でした。

中略

シュタイナーは教義に隠された「真実」を明らかにすることはまれであったが、ここにひとつある。1923年にフランス語を教えることについての質問に、「フランス語を使うと魂が腐敗するのは確実である。魂にはありきたり以上のことは身につかない。フランス語はこの死んだ言葉を生かしている血液を破壊している。フランス人は黒人をヨーロッパに移動させるというひどい暴虐行為を犯している。これが悪い意味でフランスにはね返っている。フランス語が血液と民族にとてつもない悪影響を及ぼし、フランス退廃の大きな原因になっている。民族としてのフランスは退行している。」[19]英文版にこの記述を見つけた人智学出版者たちはこの言葉の、露骨な人種差別に大きなショックを受け、長いお詫びと説明を付け加えた。この尋常ではない記述をみて出版者たちの信仰が挫けた。信用ある人間の判断である。しかし、このような例は稀である。他にもシュタイナーの奇怪な言葉は多いが、人智学徒にはそれを受け止める力があるという可能性を示すものである。

人種差別主義のことはシュタイナーが時代の人だったから、当時の物の見方や態度を共有していたに過ぎないと説明して片付けることもできる。しかし、そうすると矛盾がでてくる。自称透視者のシュタイナーは究極の真実を見通せるという大前提が崩れる。予言者の言うことは最終的に真実であるはずである。シュタイナーはこの予言という自分の職業を最も基本的なところで試され、繰り返し自滅していることになる。

 フランス語カードにしろ、民族カードにしろ、脳の働きカードにしろ、浮かぶイギリスカードにしろ、地球は太陽の周りを廻っているのではないカードにしろ、どれか一枚でも引き抜けば、カードの城全部は崩れ落ちる。

 学校のやり方に屈服しなかった友達が私には何人かいた。肌の色が濃く、生まれつき懐疑精神の発達した子たちだった。または、ほんの数年しか通わなかった子たちは比較的被害がなく済んでいる。他の生徒たちはさまざまな程度に影響を受けていた。私の推測では、割合は少ないがかなり深く引き込まれた人がいた。シュタイナー教育に魂の望んでいるはずのものを与えられ、長期にわたり確信を深めていった。毎年同窓会に集まり、クリスマスの歌を歌い、特別行事に出かける。寄付をして学校の理想実現のためにできる事をする。シュタイナーを勉強し、献身的に活動する人もいた。

 私はこうした運命を免れたが、かなり危ないところまで近づいていた。9年生の頃、私はこの炎のとても近くに立っており、その暖かさに引きつけられていた。だが、そこから引き返した。私が完全な忠誠状態に一番近づいたのは、卒業式の日、興奮と郷愁に包まれたあの時である。その6月の朝、卒業生総代として短いスピーチをした後、自分のことを信仰深い人間だと感じていた。(十戒を諳んじることも、聖書の短い聖句を引用できたわけでもないが)この世界が物理的であるより精神的であり、現実より理想に満ちているという事実にわくわくしていた。私には虚栄心と道徳心と自惚れがあり、無垢なシャイな人種差別者で、(総代にしては不可解だが)本当の自尊心に欠けていた。確信がもてず頑迷だった。科学が半分の真実しか示さないという浅薄さに我慢がならなかった。知性よりも想像力に、判断力より感受性に重きを置いていた。どんなことでも自分が正しいといつも思っていた。(ここはひとつ黙って聞いてください。)私にはアメリカ経済や広い世界の主な政治問題の知識が僅かしかなかったのに、気にもしなかった。学校の外にあることは何もかも自分の下にあることのように見えた。方向を見失っていた。私には仕事につけるような技術はひとつもなかった。評価をもらえるような社会的技術もなかった。美しくて豊満な肢体をもつアーリア人の相手を欲しがっていた。(現実には私のファンタジーに付き合ってくれる女の子はあまり居なかった。マリリン、今はどうしているんだろう。デートもできなかった。)仕事を持ちたいとは思っていなかった。安らかな死に半分あこがれていた。聖戦の方がいいか、救済か。「神」という題名で世界中の宗教を調停するような本を書きたいと夢見ていた。アメリカ合衆国大統領になることを夢見ていた。パフォーマンスをしたいと夢見ていた。とてつもなく大きなすばらしい何か、だが何をするかはっきりしていなかった。ところが、私には腰を上げる気がなかった。ただ待機していた。何かを待っていた。言い換えると、自分でも計り知れないほど徹底的に色濃く洗脳されていた。(私のことをマンチェリアン少年[訳者注] と呼んでくれ)それにはっきりした自覚はなかったが、ものすごく不幸せだった。不幸せで本当によかったと思う。その後何年かかけて、ゆっくりと現実がみえてきた。自分の置かれている状況を把握しなくてはいけないと思うようになり、それから治していこうと思った。そうして私は(比喩的に)この霧の中から自分の道を戦いながら切り開いてきた。私は空中浮遊していた。そして、長い時間をかけて地に足をつけた。完全に自分の洗脳を解くには20年以上かかった。

[訳者注]「マンチェリアン・キャンデイデイト」のこと。マンチェリアン=満州。政治的に洗脳され別人になった人が出てくる古いアメリカ映画。

 私は自分が体験した長く消耗する戦いを誰にも繰り返して欲しいとは思わない。もし、お子さんを宗教学校(または学校の本体に疑問が湧くような「特定の宗派でない」学校)に入れようと考えているなら、その学校のカリキュラムと目的について細かく調べてください。カリキュラムにどの程度純粋な暗記があるか。議論は許されているか。異議は認められるのか。祈りは必須事項か。図書館にはどんな本があるか。(または禁止されているか)科学はきちんと教えられているか、宗教観に歪められていないか。(シュタイナー学校ならば、カリキュラムのなかで神話の果たす役割について、ルドルフ・シュタイナーとは誰か、シュタイナーの進化に対する考え方、シュタイナーが島についてどう言っているか、地球の自転についてどう言っているか、また予言者について質問をしてください。)本当の答えを言うよう、しつこくプレッシャーを与えてください。ひとつでも信用できない答えがあれば、他の学校を探すといいでしょう。子どもたちの将来は親の手の中にあります。

V 何と言ったのか。

ガーデン・シテイ・シュタイナー学校を卒業して、私はすぐシュタイナーの作品を研究する小さなグループに参加した。けれども、長くは留まらなかった。私はまだ方向を定めて集中できる状態にはなかった。ガードナー氏は正しかったようだ。シュタイナーを勉強するには、私はまだ若かった。

 最近になって再びシュタイナーの本を手にとってみた。この冗長な文章を初めて読み進めることができた。私は教義の全てが邪悪だとは言わないが、やはり注意深く見ると、まちがいなく問題のある記述がたくさんある。(信奉者たちはこんなひどいことをシュタイナーが言うはずがないと言うので、その言葉を正確に伝えるため出典を細かく記した。)このエッセイには、シュタイナーの初期の驚くべき言葉を載せた。もう少し書き加えさせてもらいたい。

 まず、充分説明のできなかった部分から詳しく述べたい。人智学には奇妙で非科学的な進化理論がある。少数からなる下部組織の人間(秘儀参入した人智学徒、主に正しい習慣の身についたシュタイナー学校卒業生)は神のような完全へ向かって進化している。そして、ある日全世界を引き継ぐ。悲しいことだが、進化していない人間たちはこの過程のどこかで潰される。民族紛争は歴史の必然である。ファシズムを覚えている人には思い当たる節があるだろう。「(進化の次段階には)離れた地域のあちこちで白色人種と有色人種の暴力闘争が起こる。人種間の小さな戦いが白色対有色の大きな人種戦争に行き着くまで続く。これを精神科学の多様性という観点からみると、我々は非常に大変な事態の前にいると言える。そして、この戦争は将来歴史の必然とみなされるだろう。」[20]シュタイナーのもつれた糸のような繰り返しの多い言い回しを簡潔にするとこうなる。最も進化した人間は進化が正しく進行してゆくために程度の低い人間の影響を克服しなければならない。そして、新たな高い精神段階が許されるのである。

 シュタイナーは、あらゆる民族の外見の肉体的特長が民族の内面の価値に影響していると教授している。髪の毛と瞳の色はとりわけ重要である。「ブロンドと青い瞳の人種が死に絶えたら、人類は愚かになるであろう・・・ブロンド人種が知性を与えている。正しい人間には瞳と髪には栄養分がまわらず、栄養分は頭脳に残り知能となる。茶色または濃い色の髪をもつ人間は、正しい人間が脳に留めたものを瞳と髪にまわしてしまう。」[21]

 人類史はアトランテイスまで遡る。我々は現在アトランテイス後第5期に属していることになっている。アーリア人はアトランテイスが沈んで以来優秀民族である。[22]黒色人種や黄色人種とは対照的に、アーリア民族が精神的に向上してゆくことになっている。言い換えると、白人が人類の先頭ということになる。我々が次の第6期へと人類を案内するべく充分進化したとき、民族の目的が達成されたことになる。

 シュタイナーは髪の色も瞳の色も濃かった。それが、彼の場合には重要ではなくなる。シュタイナーは超越した知能を神から与えられた予言者である。シュタイナーはおびただしい数のあらゆる種類の霊を感知することができ、膨大な霊的生物、事実、姿をしたものが天と地にあふれていると言っていた。[24]シュタイナーはよく肉体を離れて力を蓄えるために霊的王国へ帰っていた。[25]そのため、あらゆる知識を直接受取れるのだと言う。たとえば、イエスについても聞いており、あらゆることを知っている者として振舞い聴く人に印象付けた。ただ、シュタイナーの「知っている」救世主は福音書に書いてあることとは違う点が多い。事実、シュタイナーのキリスト教は異教と魔術が奇妙に絡み合ったものである。「イエス・キリストの行いが常に精神世界を表象する物質太陽との関連でみることができるという事実は重要である。精神世界はキリストの身体が動いている点で受取られる。たとえば、イエス・キリストが癒すとき、太陽が癒している。しかし、太陽は空の上で正しい場所になければならない。(その夜、日没のとき、人々はキリストの元に病人や悪魔に住み着かれた人を全員連れてきた。)この癒しの力が、太陽が定位置にあり精神的に働くときに現れるということは重要な指摘である。」[26]

 シュタイナーの言葉は、(聞くところによる)LSDのトリップに失敗したときのようでもある。思考がとび、感覚的現象が変化し砕け散る。正常な現実は消えてゆく。しかし、これが肝心な点だろうか。シュタイナーや信奉者たち多くの信仰深い人にとっては、肉体の感覚で知覚できる客観的な物質宇宙には実体がない。そういう人にとって、本当の現実とは合理主義者が神秘的、隠された、おそらく存在しないとまでいう王国の方である。子どもに真実を真実ではないと言い、真実ではないことを真実であると示すことは、精神的虐待の深刻なケースといえよう。

 シュタイナーは自分の教義が真実であり、予言者として直接感知したものであると主張している。しかし、シュタイナーの作品を読むと、実際には神智学をくまなく引っ掻き回したということがすぐに分かる。バラ十字、神話、寓話、古代カルト物語、おとぎ話、あらゆるファンタジーと夢である。人智学で使う伝説は、世界中から少しずつ収集した想像上の思索、空想物語の一覧表である。一例を挙げよう。小人である。「地球上のあらゆる場所には予言者の視界で見える生き物がいる。・・・小人は大勢が集まってうずくまっていることができるらしい。そして、地表が開いたとき、バラバラになって飛び散るのである。・・・小人にはたくさん名前がある。ゴブリン、ノームなどである。」[27

 もう、たくさんだ。ルドルフ・シュタイナーは歴史上、星の数ほどいた精神錯乱した予言者の一人である。この人間には何もない。ただ、その他大勢を代表しているだけである。また、狂った教義にも何もない。ただ、教訓的な例にはなる。こんな代物にどうやって信頼をおくことができようか。我々ホモ・サピエンスはもっと知能が高いはずである。

 ここまでで読者に納得してもらえたことと思う。そうでなければ、読者を傷つけていることだろう。読者の胸の中にガラガラと音を立てるくらいの危機感を抱かせることができれば、私のエッセイは成功である。もっと早く公表できなかったことが残念である。「これが子ども達の精神を歪めた事実です。ここにいるのがそのときの少年です。展示A。」しかし、私の洗脳がまだ解けていないうちは、話すことができなかった。それまで私にははっきり見えるものは何もなく、はっきり言えることもなかった。

また、私にはもう一つ公表を遅らせる事情があった。先に触れたが、母はジョン・フェントレス・ガードナー氏の秘書であり、死ぬまでガードナー氏を立派な人物であると信じていたし、3人の子どもをシュタイナー学校へ通わせたことは正しかったと心から信じていた。母が生きているうちは、このエッセイを発行することができなかった。(母を苦しめることはできなかった。今母は亡くなっており、私は母の安らかな眠りを信じている。)そして今、私は真実を語ることができる。

これがあちこちのセクトで、たくさんの子ども達が強いられていることである。これが神秘的ナンセンスという名の人類の長い暗黒の旅の繰り返しなのである。

 なぜ、通りで出会った占い師の二人は笑い出さないか[28]とキケロ(古代ローマの哲学者・政治家・雄弁家)は言った。しかし、神秘主義者は上手く振舞うものだ。しかも、自分の言ったことを本当に信じている者もいる。たぶんシュタイナーは自分の言ったことを信じていたのだろう。それなら、ペテン師ではなく狂人だ。しかし、どちらにしてもさほど差がないことで議論する必要はない。いずれにしろ、シュタイナーは危険な神秘差別主義の悪党である。(きわめて明白である。シュタイナーを真剣に受け止めると、誰もがシュタイナー学校を設立しようとするのに驚く。狂った予言者の崇拝者は途切れることがない。弟子達は極端主義のご神託に束になって熱狂している。)

黙示を早めたいという人、異端に対する厳しい尋問や聖戦に喜びを感じる人、神の意思に確信をもっている人、こういう人は他人を非難し切り捨てることに恐れがない。我々の時代の聖なる狂人たちは誤った道に人を導き、ずいぶん遠くまで来てしまった。しかし、狂人たちより大きな過ちを犯したのは支持者の方である。私たち自身である。宗教と愛国心を安易に混同し、(神の下に我らは結束する、アメリカに神のご加護を、神の下我らの国家は・・・)神がその刃で殺戮を行う歌を歌い、愛する子どもを「白色人種と有色人種の暴力的な戦い」などという残虐行為へ送り出そうとしていたのである。

 私たちは別の道を見つけなければいけない。メシアのファンタジーにではなく、現実にしっかり根をおろし、人間の品格を保たなくてはいけない。別の道といっても、神を否定する必要もなく、謙虚な真の信仰を非難するものでもない。敬虔な心を持たないのではなく、もっと真剣な敬虔な心を持つことである。私たち全員に不可欠な態度として再確認すべきは謙虚さであろう。私たちの誰もが、どれほど本当に物を知っているといえるのだろうか。観測可能な宇宙の96%は暗黒エネルギーと暗黒物質でできているという。(暗黒とは何か分かっていない。私たちは物質宇宙のことを何も知らないということだ。それなら、存在するかもしれない精神王国の神秘について、私たちがどれほどの確信を持てるというのだろうか。私たちは全員が人類の知識探求の扉のそばに立っている。)宇宙の内側からか、宇宙を越えたところからか湧き上がる人間と世界とを統括する力への知識探求である。最後の答えには、はるかに遠い。

シュタイナーのように、ひとつの「神の宇宙計画」という知識を絶対かのように主張することは、惑わされやすいばかりでなく残酷である。人に精神的指導をして理想世界へ導き、どれほど多くの被害を与えただろうか。私たちに真に必要なものとは、謙虚さよりも先に求められているものとは、真実を求める者同士の思いやりではないだろうか。

 最後に思いやりの誤まった例を挙げる。再び私がもっともよく知っているカルトから引用する。最初のシュタイナー学校で開かれた教師間会議のとき、シュタイナーは学習障害児である小さな女の子の例を分析し、この少女に対して教師にできることがあまりないのは、この子が本当は人間ではないからであると説明した。人のなかには、こうした偽人間が多く含まれており身体の中には悪魔が詰まっている。[29]このコメントに逆上した教師はいなかったようだ。また、私がこのコメントを見つけた2巻セットの出版者もそうである。このセットにはフランス人の犯した「ひどい残虐行為」という悪名高いコメントも載っている。出版者はフランス・バッシングと人種差別についてはお詫びせざるを得ないと感じていながら、実際は悪魔であるが仮に人間の姿をしているという記述にはお詫びも説明もない。

つまり、進化向上してゆく人間とその他全部の劣った種類(私たちが戦うことを運命付けられた有色人種、人間ではない人間、悪魔)との差別が人智学の世界観の土台になっているからである。シュタイナーはおそらく自分の言葉を何一つ間違っているとは思っていないだろう。「年をとった人のなかに非常にたくさん人間ではない人間が含まれている。」シュタイナーは教師たちにこのことを口外しないよう注意した。「我々が人間ではない人間がいると言っていると人が聞いたら、何と言われるか想像してみなさい・・・このことは世界に向かって叫びたくない。そんなことは叫びたくない。」[30]ルドルフ・シュタイナーにはほんの少しでも良心があったのだろうか。他人の人間性を無視する悪漢や奴隷商人やナチと比べても、情状酌量の余地があるだろうか。そして、シュタイナーは一生の中でおそらくたった一度、支持者に本当の知恵を授けた。黙っていなさい。ここで私たちが話し考えたことを明かしてはならない。人はおののくであろう。だから、口を閉じよ。そして、信奉者はその通りにしている。

注釈

注釈の不要な読者もいるだろう。しかし、徹底的に掘り下げたい人や説得力のある証拠がなければ私の論議を否定する人もいると思うので以下に注釈をつける。

[1]ジョンTMcQuiston 「サイキック、元生徒の影響に揺れるシュタイナー学校」ニューヨーク・タイムス1979218p.48

記事には、運営教師陣にこの生徒の影響力に憤慨した者がいたため、辞職要求が出されたと書かれていた。この件に関わった個人と多く知り合った私には以下の説明を加えることができる。運営教師陣のなかにはそんなに多くの教師陣リーダーたち(校長、元校長他)が魔術的な運営をしていたということを知り、本当にショックを受けた人もいたことは確かである。シュタイナー学校の従業員は、この学校の設立趣旨になっている教義を説くシュタイナーを知らない人や教義の表面だけしか知らないという人たちだった。こうした教化されていない従業員たちは、魔術運営をする人たちをこの学校から追い出してしまえば、学校はきれいになり改革されると考えたかもしれない。

しかし、問題はシュタイナーが予言者であると公言していたことであり、シュタイナーの全体系は神秘的「洞察」(民族差別「洞察」を含む)に裏づけられていることである。シュタイナー学校が、シュタイナーを全否定せずに完全に神秘主義(民族差別も)を取り除くことはできない。妥協点を見つけることはできる。(シュタイナーの神秘的な教えを一部肯定し、一部否定する。)すると、カリキュラムに浸透した神秘主義が残り、神秘主義を支える「真実」が欠けることになる。結果として出来上がった育児学は一貫性に欠けるものになるだろう。

 このスキャンダルは1978年頃に起こったという。ウエブサイト上の(waldorfgarden.org)公式学校沿革にはこの話題は載っていない。

[2]学校のウエブサイトにはこの使命が記載されている。「思いやりに栄養を、全体にバランスを、優秀さと達成へ向けて挑戦を。これがガーデン・シテイ・シュタイナー学校が目指す目的である。シュタイナーの洞察に基づいて、私たちの社会の豊かな多様性(人種、性別、宗教、同性愛、障害者の種々)を含め、この学校の教授法は子どもの成長理解を反映し、人間性の霊的起源を知ること・・・」(waldorfgarden.org,ホームページの下、2005124日にチェックした)多様性(今どきは必ず入れる言葉)に触れている以外は、私がいた頃の当時の先生が書かれた文のままである。

 シュタイナー信奉者は人智学が宗教であることやシュタイナー学校の本質が宗教学校であることを否定する人が多い。この問題は[11]に詳しく述べる。ここでは使命についてもう一度読み直して欲しい。特に最後の6単語である。(人間性の霊的起源を知ること)それから、シュタイナーが最初のシュタイナー学校の教師に向けて言った次の言葉を読んで欲しい。

(朝の)祈りについても述べることがある。ひとつだけ諸君に頼みたいことがある。こういう事は、すべて外見にみえる様相次第なのである。決して詩を祈りと呼ばないようにしなさい。授業前の詩と言いなさい。教師は、一人としてあなたの前で祈りという言葉を使う者を許してはいけない。(ルドルフ・シュタイナー、シュタイナーとの教師会議、人智学プレス1998p.20

後に、シュタイナーは付け加えている。「主の祈りで授業を始めるのがよいだろう。それから私が作ってあげる詩を続けるとよい。」(Ibidp.38

太陽の光の輝きのなかで、神さま、私は、あなたが私の魂に授けてくださった、人間の力をうやまいます。あなたから、光と力がやってきて、あなたへ、愛と感謝が流れていきます。(「霊学の観点からの子どもの教育」松浦賢訳176頁イザラ書房)

シュタイナーは外側からどう見えるかを気にかけるあまり、「祈り」という言葉を一切使わないよう教師たちに命じている。そのくせ神を讃える聖書に使われる言葉を使った「詩」を自作している。人智学やシュタイナー教育の宗教的本質を否定することは無用の区別にこだわることである。実際には人智学が比較的小規模であることや普通の人からみると変わった教義であることや、たった一人の精神的指導者に集中している度合いを考えると人智学は完全にカルトであると分類することができる。

 ここに「宗教百科事典」(デトロイト、マックミラン出典2005,pp392-394)を引用する。「人智学はキリスト教秘儀を伝承するバラ十字会の流れと常に一致している。」

[3]シュタイナー教育に数年関わっただけでも、私には物事を額面どおりに受取ることを拒む精神態度が養われた。あらゆるものは何かを象徴しているように見えた。物事には必ず隠された深さがあった。今となっては当時どのようにしてこの精神態度を身に付けるようになったのかを正確に思い出すことは難しい。

最近偶然ジョン・フェントレス・ガードナー氏の書いたパンフレットを見つけた。「認識の体験」(ミルン研究所 大人の学習1962)のなかでガードナー氏は、「シュタイナー学校では芸術的な学習を確立している。」(5頁)と言う。「山と海は山と海という事象である以上に、人類の善悪に関する深い対比をイメージしているのではないか。」この二つは統合を教えている。またさらには反感をも示していると言える。」(19頁)先生が生徒に向かって使っていた言葉より高尚な言葉にはなっているが、伝えようとしていることは私には親しみ深い内容である。単にそれだけというものはひとつもなく、いつも何か意味がある。山はただの山ではない。教訓のひとつである。人間の道徳経験のイメージになる。「現代の(シュタイナー教育以外の)教師は、完全に熟練した思考を通してみたとき、この世界の物事が人間の魂に力を与えられるということを認識していない。目に見える世界にはあらゆるレベルの真実が隠されているという事実を理解するような訓練は受けていません。」(26頁)シュタイナー教育の教師はそういう間違いをしない。人間の魂に力を与えるため、いつも「目に見える世界」から注意を背けさせ、隠されたたくさんの「真実」へと注意を向けているのである。

「完全に熟練した思考」という言葉には注意を要する。シュタイナーの言葉では、正しい「考え」は脳には起こらない。シュタイナーの秩序体系では真の思考とは透視力である。シュタイナー教育のなかでは「想像力」と言われている論理の筋道よりも感覚に訴えるものをさしている。

古代人がまだ直感的透視力を持っていた頃どのように宇宙を見ていたか、現代人にはさっぱり分からない。・・・私たちが完全な人間になりたいと望むなら、再び想像力へ向かって移動する宇宙観を取り戻すため奮闘しなければならない。(ルドルフ・シュタイナー、「精神活動としての芸術」人智学通信1998,p256

未完

付録

シュタイナー学校の卒業アルバム(10年以上見なかった)には興味深いものがある。

著者経歴

ロジャー・ローリングスはニュー・ヨークのガーデン・シテイにあるシュタイナー学校に2年生から高校卒業まで通い、1964年に卒業した。カレッジを中退し、2つ目のカレッジもすぐに辞め、3つ目のカレッジで文学士、文学修士を取得する。カレッジ教授、雑誌ライター、編集者。1989年に非公式アメリカ商業飛行史「最後の飛行士 父の世界を冒険する」(ハーパー&ロー)を出版する。ここ数年はフリーランス編集者として半引退生活。

ページトップへ